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2011年8月13日 (土)

俳句はかく解しかく味う

高浜虚子の俳句入門書「俳句はかく解しかく味う」を読んでいる。

だいぶ歴史がわかってきたよ。

「俳句は芭蕉の文学。」と最後の一文があり、虚子の場合はここにつきるのかなと思う。大岡信氏が解説文を書いていて、時代背景なんかもだいぶ理解することができた。

「写生」と「花鳥諷詠」。

写生の中に奥行きを感じさせねばならず、深い部分から出た歌心こそ肝心であり、言葉を弄ばずに、情景を読み手に感じさせること。なるほど。

芭蕉、一茶、子規などの俳句の略解と、天明時代のいくつかの句の詳解を最後に行い、切れ字とは何か、月並みとか何かを解説してくれる。

元日や 草の戸越の 麦畑   召波

蕪村の門人で、骨太な作風で知られているらしい。

この歌の詳解が虚子らしいと感じた。

「なんのこっちゃ?」という感じだと思うが、草の戸越とは生垣のことのようで、年始挨拶の訪問客の出迎えに玄関先に出て、その先の渺茫たる麦畑を見たということだけなんだが、これが「写生」ということなんだ、と俺は理解した。

草の戸も麦畑も冬の景色で、枯れた風景だと思う。いや、草の戸は常緑樹で深緑かもしれない。いずれにしても、冬の色だ。

俺が子規の歌に感じた魅力、「ぽんと投げ出して、ぐるりと見渡す。」ということのエッセンスをこの俳句に感じた。その中に、作者の、人生をやや下ってしまった寂寞感と訪問客への感謝の念を感じる。

読み手の空想が随分広がってしまう。やはり、季節や自然を感じさせるのが、俳句の大きな仕事だと俺は思う。むしろ、現代において、特にそうだと思う。

虚子は、子規の後継を自認しており、雑誌「ホトトギス」の領袖として、精力的に俳句を作り、弟子を育て、論陣を張って、俳句を文化として定着させようとし、やはりその功績は大きいと思う。

河東碧梧桐との論争を、ちょっと今風に言うと、チャラい言葉遊びなんか、俳句じゃねえ!見てみい、芭蕉を。読み手に詩を感じさせるやろ。季節や自然の風物もだ。お前らわしのことを旧派というけど、けっこうけっこう、俺のことを守旧派と呼んでくれ!言葉や情景を言い過ぎて、とくとくとしてる俳句を月並みと呼んでやる。ということかな。烈々たる闘士である。

保守本流、本格派、正面突破。こんなイメージだし、確かに、ちょっと鼻っ柱が強い俳人が、かっとんだ俳句や流派を作っても、いつのまにか流行らなくなってるし、ホトトギス派に対抗するのは難しいと思う。巨大な敵は人を育てる。

レッドツェッペリンを動きの鈍い「恐竜」と呼んだパンクロッカーたちの曲は、愛好者は別にして、風雪に耐えているのか? レッドツェッペリンはレジェンド化している。

芭蕉、子規、虚子。

ちょっと勉強してみたい。

夜もすがら 揚げ続けたる 油蝉     辺路子

昨日のちょっと遅くなった帰り道。夜鳴くのはクマゼミじゃないよ。アブラゼミだよ。むしむしする夜に暑さ倍増だ。最近一晩中鳴いている。秋の虫が待ち遠しいが、まあ夏はこうでないと。それにしてもクマゼミは北上してる。温暖化してるのだろうか…

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コメント

蝉細り 芋の葉伸びゆ 季の映り
新作です。
蝉の鳴き声がだんだん弱々しくなってきたが逆にさつま芋の葉が空に向かって勢いづく。
そんな季節の移り変わりをあえて映りとかけてみました。
o1211さん、sino様、ひとつよろしくお願いします。

師匠が山から下ってきたら、相談して、10月の句会いっしょにいきませんか?俺も誘われたんだが、ojさんいっしょだと心強い。

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